始まるよ

私は写真を撮っている。でも写真家ではない。

絵画も音楽も映像も芸術はなんでも好きだ。普段目や耳、感覚でとらえた美しいものから得たもののアウトプットとして写真を使っているからだ。(それを世間では写真家と呼ぶかもしればいけれど...)今回、私の創作活動のなかでは3回目の写真展について書こうと思う。

 

今はもう夜。夜があけて朝、昼になれば展示の搬入。遠足の前日みたいな、卒業式の前日のような、足も気持ちもふわふわとなんだか落ち着かないので、今回の展示についての搬入前夜までを色々振り返ってみる。

 

話は去年に遡る。去年は縁あってこの時期頃から、京都は新大宮商店街で開催された(毎年恒例KYOTOGRAPHIEのサテライトイベントKG+のそのまたサテライトイベントこと)SHIN-OOMIYA GRAPHIEに出展していた。その当時私はドイツの写真家、トーマス・ルフに首ったけ。とにかく「大きく印刷したい!!」という気持ちでいっぱいだったのを覚えている。

Linie(ドイツ語で意味は「線」)というテーマで作品を撮りおろし、鑑賞者に日頃目に見えていない境界線を感じてもらいたかった。また、私たちはそれに生かされているのではないかという問いかけをB0サイズ3枚の写真に込めたのだった。

作品は全部で11作品、商店街に貼りだされた。普段被写体として「壁」を撮ったりもするけど、そんな被写体の上に自分の作品が展示されていることはなんとも言いがたい感覚になったのえを覚えている。いや、忘れられない。

しかし、B0って今思うとめちゃくちゃでかいな。影響に影響を受けまくっていた事が窺い知れる。若気の至り的な何かだと思う。

 

そんな去年の出来事があって、

今年は、長年の付き合いになるキュレーターの黒田君に「KG+に企画展を出そうと思うんやけど、作家として参加しーひん?」と、声をかけてもらったことがきっかけだった。KG+は公募制で厳しい審査があるんだけども、「通ったよ!」と結果を聞いた時はこの歴史ある京都国際写真展に参加できる!最高!と3日間くらいは5cm程宙を浮いていた。もう、本当に、本当に嬉しくて最高の気分。

 

そして、展示全体のテーマは私たちなじみ深い「HEISEI」

つまりはこの生まれ育った平成という時代を写真に投影するというもの。

リーマンショック」や「就職氷河期」「不況」となんだか暗ーい時代と共に成長した私たちはメディアや大人に勝手に「ゆとり世代」と呼ばれ、そのうち「さとり世代」と言われるようになった。(そのシステムを作ったのは誰やねんと言いたい)

私が育った24年の内20年は「失われた20年」と呼ばれ、日本の低迷期だとか。そんな勝手な。私はその話を黒田から聞いたとき、「私は生きているのにな」と頭の中は悲しさと寂しさと憤りが入り交じってニコニコしていたと思う。

 

この話をいただいた頃、私は普段遊びに行っているクラブや飲み屋でお酒を飲む友達のスナップを沢山撮ってなんとなくまとめていた。(だから今回のポートレート写真は見る人が見たら「あ!知ってるぞこの人」っていうものばかり)のべ50枚(人)以上の写真をなんとなーくファイリングしてぼーっと眺めていると、みんな片手に酒やタバコを持って楽しそうにしている。けれど、普段職場や、学生時代のクラスメイトを思い返すと、みんな酒もタバコも、クラブもライブも飲み屋も行かない人ばかり。その時はっと、「遊ばない世代」とか「サトリ世代」「草食系」というワードが頭にならんだ。「これが例のあれか」と。

 

もし世間に「あっち」と「そっち」があって、「あっち」が少数なのであれば私のいる「あっち」はこんなにも楽しい事があるんだぞ!ということが写真で表現できればいいなと、最初はただただそれだけを言いたかったのだけど、精神的なものをもっと表現できればいいなという思いもあり、ポートレートだけでなく自然も追加した。

 

今展示の個人的なサブタイトル『Night Swimming』の意はキャプションを参照。

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つらつらと色々書いたけど結局のところ何がいいたいかというと

・みんなもっと遊ぼう!外に出よう!

・時間は有限だけど無限で等しい

・精神は自由

・陰鬱な時代だけどももうすぐ終わるぞ!

のとりあえず四つ。

(展示中に何かがもう少し見えてくるかもしれないから断言はできない)

 

一つ目の記事としてはなかなか文量が多くまとまっていない。

それでも行き場をなくした言葉をここにためていければと思う所存。

次はもう少し端的にします。おやすみなさい。